NPO法人 ボランティアユニバース
令和6年 能登半島地震により被災された皆様へのお見舞い
このたびの令和6年1月1日に発生した能登半島地震により、亡くなられた方々に深く哀悼の意を表するとともに、ご家族や大切な方々を亡くされた皆様に謹んでお悔やみを申し上げます。
被災された皆様の安全と一日も早い復興を心よりお祈りし、また被災者の救済と被災地復興支援のためにご尽力されている方々に深く敬意を表します。
本会でも、日本の漆文化、日本人の精神性を受け継ぐイギリス人一家の再起に向けた支援を行って参ります。
NPO法人ボランティア ユニバース
代表 粟野 肇
東日本大震災支援活動
東北の復興を願い未来へ向かう
2015年3月11日、東北大震災から四年目を迎えた今日、日本全国で黙祷が捧げられました。
震災で尊い命を失われた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
ご家族を、愛する方を亡くされた悲しみは、どの様に月日が経とうとも、癒えるものではありません。しかし、それでも前を向いて、被災地の多くの方々が歩んでおられます。
私どももまた、少しでも何かできることを、という思いで4年の時を進んで参りました。
震災直後、全国の皆様に、支援物資のご協力を呼びかけた時「今、この大変な時に、被災地の方々を応援したい」「代わりに行って来てください」と、実に沢山の皆様のお力を戴きました。
当初「陸の孤島」と報じられた牡鹿半島。応援物資をトラックに目いっぱい積み込んで、地盤沈下の道路をなんとか亘り、かけつけたあの日、女川を経て半島に入ったその光景には全てのメンバーの涙は止まりませんでした。
あの時から始まった牡鹿半島支援も時と共に、その形が変化しました。当初は、最も必要とされた支援物資と食料を頻繁に運搬し、被災者の方々に手渡すことを。 そして次に、漁業の復興のための機材と共に、毎週週末に牡蠣養殖の為に毎回、何十人というメンバーが全国から集って現地の方々と共に作業をし、皆の力でその年の牡蠣の種付けが成功しました。
いったんは諦めた養殖を、また再び行おうという声が上がり始めた時も、種付けが叶った時にも、あの時の一瞬一瞬が、今も私達の眼に焼き付いています。
つらいことがあれば、誰でも、そうであるように、心寄り添う人が必要です。 全国から集う本会のメンバーは、主婦、学生、会社員、医者、教員等など、様々な人々でした。皆が毎回、祈る気持ちで牡鹿半島へと向かい、涙も笑顔も共にした時でした。
そして、津波被害の為に家業の再建が困難となったご家庭の児童に対する就学支援、学校に対しての支援、食料を手に入れることが困難な方々への支援を開始しました。
あの春、中学を卒業した子供たちは、今年、高校を卒業し、大学入学をする人、就職をする人、と、皆大人への入り口に立っています。きっと彼らは将来、故郷の復興に力を注いでくれると信じています。
被災地の状態が変わって行くと共に支援の形も変化を遂げ、私達は、現在、個別の支援を継続しています。 今も私達のこの気持ちは変わらず、ただ被災地の皆様を応援し、これからの未来へ向かって参ります。
20150311-追悼式被災者代表 読み上げられた文章には、お母さんを目の前で亡くすという辛い津波の体験が。それでも未来へ向いて歩む気持ちが綴られていた。
東北の復興を願って
2011年3月11日に発生したマグニチュード9の東日本大震災は、死者15,854人、行方不明者3,143人(2012.3.21現在)という日本史上稀に見る大災害をもたらしました。
私たちボランティアユニバースは、すぐさまトラック2台に緊急物資を詰め込み、当時、自衛隊しか入っていない宮城県の牡鹿半島に駆けつけました。現地入りした私たちの眼前には言葉を失う光景が広がっていました。見渡すばかりの瓦礫とあちこちに転がっている車両や船舶、行きかう車は自衛隊の支援物資を運ぶ車ばかり。避難所では物資を待つ多くの被災者で溢れ、ここは戦場なのかと誰もが目を疑いました。
私たちが運んだ緊急物資はいたるところで喜ばれましたが、被災地を去るときのなんともいえない悲しみは忘れることができません。それはもっとこの地に留まり、被災者の方々と共に苦痛を分かち合い、繋がっていたいという思いであったと思います。絆といってよもよいかもしれません。
私たち支援者は明日からいつもの生活に戻ることができますが、家族を亡くした方々や家屋を失った被災者の方々は、いつまで先が見えない暗闇の中にいることになるのだろう、希望の光は射してくるのだろうか。近いうちまたここに戻りたい、支援メンバーの誰もが心の中で思いました。
何度目かの支援の帰りのことです。被災地に満開の桜が咲いていたことに感動しました。また、ある時は牡鹿半島に沈む美しい夕陽や満天の星を眺めたこともありました。あれほどの大災害であったにも関わらず、何ごともなかったかのように天地の運行は営まれています。自然の偉大さの前に人為はなんと微力で非力なことでしょう。
しかし、それでも被災した方々を目の前にすれば、何かをせずにはいられない。その心の底から突き上げてくる思いが、私たちの活動の原動力なのです。
支援活動は、初期の緊急物資から生活物資支援へ、その後、漁業復興支援、子どもたちへの支援と、現地の状況を踏まえ形を変えながら継続しています。
東北が一日も早く復興し、地域の皆さんに明るい笑顔が戻ってきますように。
私たちボランティアユニバースは被災地の方々と一緒にふんばっていきます。
これまでの現地支援は、衣料品・日用必需品・女性化粧品・子供達への遊具・スポーツ用品等の「物資支援」、「食糧支援」、「炊き出し」、牡蠣養殖の仕掛け作り・波を被った船倉庫の泥掻き出しと清掃・漁具の洗浄と修理等の「現地漁業復興労働」、フォークリフト・製氷機・冷凍庫・顕微鏡とプランクトンネット・PC等の「復興機材贈呈」、直接訪問および電話による「被災者ケア」等。
多くの皆様より御理解御協力を頂きながらの支援準備と調査、現地活動、支援者への活動報告の時間を合わせると、実に延べ4カ月以上を丸々費やしました。
支援した地域は見事に漁業復興を果たし、現在も就学が困難になった子供支援を継続中です。
タイの水害被災をはじめ到るところで起きている天変地異の中、国や地域の文化の相違を超えた人の誇りと絆を、命と共に次世代へと繋ぐことが出来るように願いつつ、隣人を助ける精神の下に、今必要とされる支援活動を継続します。
被災地から届いた言葉
漁業復興支援の牡蠣が実る
故郷の復興を心に誓う子供たち
ホームレス支援
1999年12月より開始した関東関西のホームレス支援では、これまで、のべ42,573人の路上生活者の皆さんに援助を行って参りました。(2017年12月現在)
毎月の活動は、参加者全員による炊出し場所周辺の清掃活動から始まり、飲料の配布、食事や果物、持ち帰りの食料品の手渡し、季節の衣料品、日用品等 の援助を行っています。毎回の活動は企業店舗の皆様や、日本全国で本活動を応援して下さる皆様のご援助により支えられています。
19年に渡る本活動の中での大きな変化は、援助地域のホームレスの人達が身奇麗になった事、過酷な日々の生活で荒れ気味だった人達が温和に変身を遂げ、積極的に活動の手伝いをしてくれるようになった事等があります。
東日本大震災の翌日、交通網がストップした際にはなんとホームレスの人達自らが中止の看板を作り掲げて、現地のホームレスの人達に周知活動を行ってくれ、徒歩で駆けつけたメンバーの手助けをしてくれました。
重ねた月日のうち、活動の中にも語り尽くせぬ様々な出来事があり、一人一人の人生がそこにあります。絶望の淵にある心にも、必ず希望の灯火がともることを願い信じて活動を継続して参ります。