被災地の光景 vol.01 2011年03月
仙台から北上し、石巻に入ると街は壊滅状態でした。所々、まだ海水が引いておらず、建物もほぼ損壊しており、残っている建物の壁には津波の来た高さに「線」がついていました。
渡波の中学校では校庭に流されて潰れた車があり、残っていた大木の枝の高い所に生徒の椅子が引っかかっていました。更に進むにつれ、すれ違う車は殆どなく、自衛隊車か現地の災害対策関係車両のみとなって行きました。
当初予定の道路は悉く通行止め。大回りをして牡鹿半島へと向かいました。途中、瓦礫の中に捜索をする部隊の姿や、家屋を失って焚き火に暖をとる漁師の方などに出逢いながら牡鹿半島突端へと。12時間かけて辿り着きました。
海抜ゼロの風景は、道をはさんで右手が海、左手は全てを失った瓦礫の山となっていました。現地は電気も水道もまだ来ていません。電気については少しずつ電柱を立て始めており、水道については全ての瓦礫を取り除いてからの復旧となるということでした。そこには厳しい現実がありました。
トラック2台、乗用車1台。一行15名で石巻へ。仙台市内はガソリンを求めて所々渋滞に。石巻市国道398号線で。
折れている電柱。電線は自衛隊がどけてくれたのか、何とか通れる状況でした。
家は倒れたのではなく「流されて」来ていました。跡形もなく損壊した市内には人はまばらでした。
自衛隊が道路の瓦礫は退けてくれたお蔭で車は通れたが、街中の瓦礫は折り重なり、復旧の目処は見えない状態。石巻市国道398号線で。
渡波中学校の校庭入口の木の高い所に、教室の椅子が引っかかっていました。昔ここに勤務していた現地メンバーも呆然と。「行方不明の生徒が沢山います」と。(石巻市渡波地区)
難所として使われていた石巻市立渡波中学校。校庭にはネットに絡まった車が数台見られました。(石巻市渡波地区)
石巻市内にて。自衛隊給水車。壊滅状態の石巻でしたが、幹線道路が通行可能な為物資ありと判断。更に奥地へと向かうが2号線は通行止め。迂回を余儀なくされる。
女川でコバルトラインへの道が断たれ更に迂回。潮の臭いに混じり独特の臭いが加わって来る。学校が閉鎖で子供がここで遊んでいた姿は忘れられません。
ここから景色が一変して行きました。道路から見下ろす町は家も道も全てがぐちゃぐちゃに壊れていました。
ただただ延々と瓦礫の風景が始まりました。写真では鮮明ではありませんが、かなりの奥行きがあります。
女川での各港ではコンクリートの大きな倉庫も含め、全ての建物が崩れ壊れていました。出歩いている人を全く目にしませんでした。
「通行できる」と情報があった道路が幾度も通行止めで迂回しながら瓦礫と埃の中をただ突き進みました。
最後尾のトラックから撮影。海側の森も越えて津波が襲い、平地の建物は見渡す限り壊滅状態でした。
瓦礫には、木材よりもコンクリートや金属が目立ちました。ところどころ船も打ち上げられて損壊していました。梁しかなくなっている倉庫も沢山ありました。
何もない。全てが一瞬にして無くなってしまった様子がはっきりと感じられる風景が繰り広げられていました。私達もただ呆然と言葉もなく進んで行きました。
倉庫やビルなどが酷く損壊。ねじ曲がった屋根や金属が沢山。津波の後の海水はまだ引いておらず乾いた所には土埃が。すれ違う車も無くなって来ました。
高白で山越えの最中、道は沢山のクラック。山山の間から見えた自衛隊捜索の間に、呆然と立つ親子の姿が。「2日前から自衛隊が来てくれたが未だ支援は捜索のみ」と近くで暖をとっていた漁師の人達から聞きました。ほんの時折、すれ違う車は、ほぼ自衛隊車と災害緊急車両、のみとなって行きました。
小さな湾はかなりの高さの所まで、津波にやられてしまったことが見てとれました。
海べりを走って行くと美しい浜辺にも沢山の瓦礫があり、反対側には跡形もない家々の損壊した光景がありました。
「牡鹿総合支所へ行けば情報がもらえる」と仙台で情報を集めた時に言われました。支所へ向かう途中。